大阪の出張帰り。あまりに眠いので、室津P.A.に車を駐めて30分頃寝ていました(笑)
予報では雨であったにもかかわらず、淡路島北部はすっきり晴れていました。
津名一宮I.C.で下りて、ふらっと寄り道して帰ることに。ここも稲刈りはちょっと遅め。
柳澤から少し折り返して、伊弉諾神社に寄りました。
ここでは伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉冊命(いざなみのみこと)が祀られています。
日本語も、あまりに旧いと読みにくくなりますねぇ(汗)
おや、どこかで聞いたという方もいらしゃると思います。
日本書紀に記されている、神世七代に含まれ、おのころ島や淡路島を始めとして日本の島々(日本列島)を創出したと伝えれられる神様ですね。昔勉強してお覚えたことも使わないと記憶から削除されていきますが、「歴史」という分野もその最有力候補です、たまには思い出しましょう。
日本では、正月には寺社や神社にお参りをしながら、近年ではクリスマスを祝ったりハロウィンをしたりと、その無節操ぶりから、宗教心が薄いように言われますが、いろいろな他文化のオイシイところを取り込む日本人のハイブリッドぶりは、お家芸でもありますので。その柔軟性は外国人さんには、判り難いところなのでしょう。
キリスト教が輸入され広まる以前。歴史をたどると、日本は一部の例外を除き、天皇が統治する国でありまして。
天皇・朝廷関係者にとって、支配する日本国民に対する威厳、権力や栄光の提示、不満の解消先として、「我らは神々の子孫」であり、その先祖である神をお祭りする場所、またはそのご神体を納めるところ」として神社を各地に設け、信仰の対象とすることを広めました。
(第二次世界大戦での敗戦があり、天皇の権力を下げようとするGHQによる意向などにより、
法令が改訂され、現在では政教分離により国家、皇室が神社に直接関与しなくなったしなくなったので、特に勅許などの国の許可を受けなくても、大社、神宮を名乗ることができるようになっています)
ところが、古事記や日本書紀に書かれている、日本創造とその子孫である天皇家の物語が出来る以前から、日本古来の信仰というものはあったようでして。
それは「神道」と名付けられていますが、いまいちピンときませんね。
八百万(やおよろず)の神と呼ばれる神様達を信仰する宗教といえば、少し覚えがあるかと。有名なところでは、八幡様、お稲荷様、天照大神といったところでしょうか。
ままならぬ自然現象も、それを司る「神」という存在がなしているもの、その「神」または「ご神体(神の依り代)」をお祭りするところが「神社」であると。
この「神」の創造されたころは、日本が一国に統治される以前の話ですから、そりゃもう、信じたもの勝手なわけです。神自体が「目にも見えないけれども自然の摂理(森羅万象)を司る存在」という定義な訳ですから、人の姿をした神でなくても良いのです。
四季の変化や自然に恵まれた日本の風土のもとで、不思議さを感じる対象として、山や森、岩や水などの自然物に神が宿り、これをご神体にする例が多いのも納得できます。
人を化かしたりする狸や狐、その他鶏、猿、丑、鹿、猪、蛇、鳥といった多様な動物も宿り先として、あるいは神そのものとしての信仰の対象になっていたりします。
こういった古来の神様を「国津神」、高天原に住む神と天孫に従って天降った神であり天皇のご先祖である神を「天津神」と言ったりするようです。
国津神と天津神は仲が悪かったりしますが、それも天皇の日本支配の過程を思い描けば納得できる話だなと思います。
日本の神社には、こうした成り立ちの異なる神をお祭りするものとして、非常に複雑な状態で混在している訳ですね。
天津神に属する神をお祭りする神社は、バックアップが国だった訳ですから、現存する大規模な敷地や立派な建物を有するところも多い訳です。
小さな島である淡路島において、やはり立派だと感じる伊弉諾神社ですが、祭られる神のネームバリューからして、当然のことなのかもしれません。
建造物の歴史的価値にさほど見いだせるものが無く、淡路鳴門道が出来てスキップされがちな道路事情もあり、その規模からすると少ないと思われる来訪者数ではありますが、日本最初に創造されたとされる淡路の人々にとっては、自慢の神社なのでしょうね。きっと。
まぁ、そこまでの自負はないのかもしれませんが。
四国八十八箇所めぐりで有名なお寺のうち、24箇所が存在する我が県ですが、私も半数の寺にも行ったことがありませんし。
最寄りのお寺に詣でることも滅多にありません。
ただ、そういう存在が県外の方に多く認知されているという事実は、よく意識することではありますが。
考えれば、京都もたまに行きますが、訪れる寺社神社は信仰の対象としてでは全くないのに自分でも驚きます。
それでも拝観料を払いお賽銭をあげて、少しのお願いをしたりはするのですが。
多くは、その長い歴史と、これまでに信仰者によって造り上げられた美しき庭や建造物に魅せられてのことです。
「困った時の神頼み」の言葉があるように、豊かになった日本では信仰に対して変化は生じてきているのでしょうけども、誰しも美しさを感じるような昇華された、信仰の対象の場所を所有できていることは、誠に幸せなことだと、時々思うこともあります。
その背景にこの国自体が豊かな緑と自然を持つことは勿論です。